2024.09.30
Teton Bros. x 人 -平野崇之 -〈前編〉
自然とともに歩み、共感できる仲間と製品と未来を創造していく。
Teton Bros.は日本、そして世界のフィールドで活躍するプロフェッショナルな仲間たちとフィールドで製品開発を行っています。
“Teton”の名のもとに集まってくれた多くの“人” =Teton Brothers がどのように自然と向き合い、人生を築いているのか。そして、Teton Bros. ×人の化学反応を紡ぎます。
福島県の会津地方の南西部、群馬県に面した場所にある小さな村、檜枝岐。アクセスしにくく、ことさら冬は人の流入も少ないこの地で、バックカントリーカルチャーを育ててきた人物がいる。結婚を機に檜枝岐村に移住し、和を大事にしてきたスノーボーダー、平野崇之のマインドとは。
独特の文化が息づく檜枝岐
――まずは檜枝岐について教えて下さい。
檜枝岐は日本一人口密度が少ない村といわれているように、山あいの本当に小さな村ですね。資源としては自然、観光で、尾瀬という大きなバックボーンがあります。
山深い場所なので 山菜やきのこなど山の幸が豊富で、さらに独特の食文化も育まれています。ここは豪雪のせいで昔は冬には閉鎖されていて、よそからの食材っていうのがなかなか入ってこなかったんです。なので、山菜を塩漬けにするなど、檜枝岐ならではの保存や料理の仕方があり、移住者である私自身、すごく魅力的に感じました。
あと、裁ちそばも檜枝岐の名物。
ひとつのそばを伸ばして何枚も重ね 、折らずに切るという独特な技法で、非常にめずらしいそばの打ち方です。布を切るように見えるところから、裁ちそばと言われています。
平野さんが感じた
檜枝岐のポテンシャル
――平野さんが来たころの檜枝岐はどんな状況でしたか。
約20年前に檜枝岐に来たんですが、そのころの檜枝岐っていうのは尾瀬ブームが終わった後、どちらかというと観光のお客さんがだいぶ減りつつある状況でした。
団塊の世代の人達は尾瀬のおかげもあってたくさんの人が檜枝岐を知っていたと思うんですが、私たちの世代、40代以下の世代っていうのは尾瀬にあまり親しみがなく、檜枝岐という名前自体、多くの人が知らなかった。でも、この檜枝岐っていう村は、私のなかではすごくポテンシャルが高いし、可能性がある村だなっていうところを感じていたんです。それを自分なりに発信できたらいいなと思ってこの村に来ました。
――それはやはりフィールドの魅力ですか?
フィールドの魅力もそうですし、住んでいる人たちの魅力もそうですし……たくさんありすぎてちょっと言えないぐらい。
檜枝岐の村民は非常にシャイなんですが、打ち解けて仲良くなったときの人の懐っこさが特別 です。人と人との距離がすごく近づく瞬間があるんですよね。それがすごく自分のなかでうれしかった。話せばすごくいっぱい喋ってくれるんですけど、シャイなので話さないとずっと距離が変わらない。でもそこを越えるとすごく人間性が感じられたりとか、村の考え方を聞けたりとかはしましたよね。
――それを重ねて、いろんな人とつながっていったのですね。
実際ひとりではなにもできなかったと思う。人とつながって、またその人を介してその先の人につながって、というのを繰り返していきました。
村民の方もそれぞれ得意な分野はあって、その得意な部分をいろいろ教わっていましたね。山を教わる人間もいれば、そばを教わる人間もいて。そういうのがあって村生活のベースができました。
未開拓だった尾瀬のバックカントリー
――檜枝岐での仕事について教えてください。
グリーグリーンシーズンは尾瀬のガイドをしているんですが、観光のお客さんが増える繁忙期になると宿も忙しくなり尾瀬に行けないので、宿や食堂の仕事がメインになりますね。
ウインターシーズンは「楽」(平野さんが主催するガイドカンパニー)でバックカントリーのツアーをやっています。まずはバックカントリー初心者向けのツアーがあり、さらに次の段階のバックカントリーツアー、さらにレベルアップすると会津駒ヶ岳だったり、燧ヶ岳だったり、本格的な場所にちょっとずつ足を踏み入れてもらうという流れです。
――楽を立ち上げたのはいつごろですか?
2008年に私を含めた檜枝岐村民7人で立ち上げました。当時、尾瀬のガイドをする人が檜枝岐に はあまりいなくて、それで私たちがやっていこうという流れから楽を立ち上げることになったんです。当時、檜枝岐の尾瀬のガイド は本当にひとり、ふたりぐらいしかいなかったんですよね。彼らは尾瀬の植物を熟知していたので、私も教わって勉強しました。
それからウインターのガイドも始めました。グリーンシーズンはそれなりに人が来ているのに対し、冬はまったく人が来ない状況だったので、最初からウインターシーズンは一生懸命やりたいという思いは強かったです。やっぱり私もスノーボーダーなので。
――ウインターのガイドを始めたのは何年からですか。
楽のキャットツアーをプレで開催したのが 2009 年で、翌年2010 年からお客さんを入れるようになりました。実はそれまで、現在のメインフィールドである尾瀬には滑りに行ってなかったんです。
滑れることに気が付いたのは実は山小屋の雪下ろし。雪下ろしのためにスノーモービルで尾瀬 の麓に行くじゃないですか。そのとき「ここも滑れるんじゃないか」って。もともと檜枝岐にはキャット(雪上車)があったから、それを利用することもできる、と考えて村長に直談判しに行ったんです。
それがツアーの始まりでした。
――もともとこちらでバックカントリーをやっていた人は少なかったのですか?
檜枝岐はあまりいなかったです。でも豪雪地帯だけあって、そもそも檜枝岐の人たちのスキー技術はすごいんですよね 。
バックカントリーではないですが、ローカルである私の義理の父は、昔ヘリスキーをしていました。妻もヘリスキーの経験があって、会津駒ヶ岳を滑っていたりするんです。ただ、自分で登って滑るというバックカントリースキーの概念はなかったみたいですね。
はるばるやって来るお客さんに楽しんでもらいたい
――楽を立ち上げて、軌道に乗るまでは大変でしたか?
周知させないといけないので、まずは営業活動に励みました。各地のスノーボードショップを回り、「こういうことやってます」って飛び込みで宣伝したんです。
草の根運動などを通して運良くキャットツアーに来ていただいたお客さんは、かなりの確率でリピーターになり、それがちょっとずつ増えていきました。ひとりの方が、ふたり、3人って仲間を連れてきてくれたんです。檜枝岐や楽自体があまり知られてなかったので、それも良かったんじゃないでしょうか。だからこそ興味を持ってもらえたのではと。
――来られたお客さんは楽や檜枝岐のどの部分に魅力を感じたと思いますか?
やっぱり人が少ないので競争率が低く、高い確率できれいな斜面を滑れるっていうのがあるのかなと。
あと檜枝岐自体がどこか素朴なところも良かったんではないでしょうかね。それにしてもこんな豪雪地帯、高速から下道に降りてさらに2時間もかかるようなところなので、目的がないとわざわざ来ないと思います。
僕らとしてははるばる来てくれたお客様をどれだけ精いっぱい楽しませられるか、と考えてやっていました。
――楽の仕事続けるなかで大変なことはありましたか?
苦労したことは実はあんまり思い当たらなくて。他の方からはすごく大変そうと言われるんですけど、ひとつも苦じゃなかったんですよね。
ただ、新しいことをやるにあたって、村の方に理解してもらうのが大変だなとは思いました。だから、意識してコミュニケーションを取りながら進めていったんですよね。理解してもらうために、村民の方にはできるだけキャットツアーに来てもらおうと思って。やっていることを見てもらうのが一番早いなと。
平野崇之
1978年、茨城県出身。檜枝岐村に移住してガイドカンパニー「楽」を立ち上げ、グリーンシーズンは尾瀬のガイド、ウインターシーズンはバックカントリーガイドして活動。民宿・食堂「かどや」代表でもあり、村の郷土料理「裁ちそば」を打つそば職人という顔も持つ。
ティートンブロスのアンバサダーとしてプロダクトのテストやフィードバックなども行なう。