Teton Bros. x 人 -立本明広-〈第一回〉

Teton Bros. ×人

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自然とともに歩み、共感できる仲間と製品と未来を創造していく。

Teton Bros.は日本、そして世界のフィールドで活躍するプロフェッショナルな仲間たちとフィールドで製品開発を行っています。
“Teton”の名のもとに集まってくれた多くの“人” =Teton Brothers がどのように自然と向き合い、人生を築いているのか。そして、Teton Bros. ×人の化学反応を紡ぎます。


「スキーはずっとやっていました。だけどあんなに軽い雪を滑ったことはありませんでした。もう、一発で虜です」

今は小樽郊外にオフィスを構え、ガイドとして活動する立本明広。関東出身の立本が北海道に移ってきたのは、シンプルに滑るためだった。子どもの頃からスキーをしてきた立本が、北海道で見つけたものとは。そして、立本はどんな思いを経てガイドになったのか。Teton Bros.がサポートするアスリートの中でも屈指のアクティブさを発揮する立本の、ブレない思考と強靭な体力の背景を紐解こう。

山とスキーに惹かれたのは、間違いなく父の影響です

――小さい頃はどんなお子さんだったんですか?

とにかく外で走り回っていました。体育が得意科目で、中でも持久系は強かったと思います。高校くらいまでマラソン大会はだいたい3位以内でした。

――スキーを始められたのはいつ頃ですか?

小学校2年生です。僕は埼玉県飯能市の出身ですが御存知の通り、埼玉は雪が多い地域ではありません。でもうちの父が登山やスキー、アイススケートが大好きで、冬になると毎週末、群馬や新潟の山に連れて行ってくれました。それがとても楽しかったんです。

立本のお父さん、立本、そして弟さん。小さい頃から四季を問わず、山に行くことは多かった。立本は毎回、それが楽しくて仕方がなかった。

 

――スキーはお父さんの影響なんですね。

父はアルピニストと言ってもいいくらいの山好きなんです。1972年、僕が3歳のときにはアラスカのデナリに行きましたが、遠征から帰ってきた時には日焼けとヒゲが凄くて、もうまったく別人の顔でした。その姿が強烈だったみたいで、僕の一番古い記憶は、たぶんこのときの父の顔なんです。

1972年に立本のお父さんがデナリ(当時の呼び名はマッキンリー)に登った時の写真。向かって左がお父さん。この写真は今回、インタビューにあたって実家のお母さんに探していただいたもの。立本が覚えているのはこの写真ではなく、どこまで歩いても景色が変わらないと言われた、広大な氷河地帯のものだった。

父はマッキンリー遠征の前は北アルプスの剣岳の岩場のルートを開拓したり、山に登るために仕事を何度も変えたりしたそうです。僕が山を好きになったのはそんな父の影響が大きいと思います。

――お父さんからデナリのお話を聞かれたりしましたか?

カヒルトナ氷河というものすごく広大な氷河の上を歩いてる写真を見せてもらいながら、広すぎて何時間歩いてもまったく景色が変わらないんだぞ、という話は何度も聞きました。そんな所があることに、とらえどころのない不思議さと言いようのない興奮を感じたことを覚えていますね。

――山のことを理解なさっているお父さんは、立本さんがガイドになられたときには何とおっしゃいましたか?

お前はいいなぁ、たくさん山に行けて、って言ってました。まぁお客さんの安全を確保して、とにかくケガしないように頑張れって。あと、死ぬなよ、って。

 

今までやってきたことが、
ギュッとひとつに集約した気がしました

――少しスキーのことを聞かせてください。小学校2年生から始めたスキーは競技スキーですか?

いえ、ずっとゲレンデのレジャースキーです。僕自身、小学校と中学校の興味の中心は山でした。ですから山に登れるのかなと思って、高校では山岳スキー部に入部しました。だけど冬山登山は活動範囲外という決まりがあったんです。なんだ、それじゃあ雪山登山はできないじゃないかって(笑)。それで、冬は競技スキーをやることになりました。
まぁそれならそれでいい、僕としてはスピードが好きだしアルペンをやりたいと思っていましたが、立本はマラソンが強いからクロカン(クロスカントリースキー)やってみないかという話になりました。じゃあ試しに、ってやってみたら悪くない記録が出たんです。そうしてるうちになんだかインターハイと国体に出れることになって、その流れでクロカンの選手に仕立て上げられました(笑)。

高校2年生インターハイ出場時。夏は登山、冬はクロスカントリースキーに明け暮れていた。

結局、大学卒業まで7年間、びっちりクロカンです。そこそこ成績は良かったし、順番がつくことなら負けたくないと思っていたので、走り込みは真面目にやりました。それこそ高校時代の合宿中は、毎日クロカンコースを60km、多い日は100kmくらい走っていました。走り込みのような基礎的なことは、続ければちゃんと結果として現れます。ホントにキツくて嫌だったけど、やっておいたほうがいいだろうな、と思ってやっていました。

――1日に走る距離とは思えないですけど......。当時、やりたかったアルペンは?

クロカンの合間にちょっと、です。だからクロカンはクロカン、アルペンはアルペン、登山は登山で、全部別々のアクティビティとしてとらえていました。

――そんなクロカン中心の、ある意味ストイックなスキーライフが、自由なパウダースキーにつながるのはどういう流れからですか?

大学を卒業したあと一応は就職して、しばらくはサラリーマンをやっていました。
当時、大学のスキー部の先輩が北海道に住んでいて「立本、こっちの雪はすごいから一回滑りに来い」って誘ってくれたんです。それで、先輩の部屋に泊めてもらいながらパウダーを滑ったら本当に凄くて。深いし、広いし、自由だし。こんな楽しいスキーがあったのかと嬉しくなりました。

何よりも雪に覆われた山は、どこでも自由に歩いていけます。本当に自分ですべてを決めて山に向き合えるんです。自分の好きなものが目の前にあって、そこにアクセスできる道具があって、そこそこ思い通りに扱える。いままでバラバラだった山や登山や外遊びといった事柄が全部ぎゅっと集約して、ひとつに溶け合ったような感じがしました。

1998年、札幌郊外の白井岳。バックカントリーにハマって96年に北海道に移住。スキーバムのような生活をしていた頃。滑り方のスタイルにも時代を感じさせる。

そうなってしまったらもう、歯止めは効かないですよね。当時、バックカントリースキーという言葉さえもなくて、みんなが山スキーと呼んでいたもの、それにどんどんのめり込んでいってしまって。しばらくは通いで北海道に滑りに来ていましたが、2年ほどで勤めを辞めてニセコに移住しました。

1998年春。仲間との大雪山滑走キャンプ。左から二人目が立本。ちなみに着ているのはMAMMUTのセラックプロジェクトシリーズ。
どうしても欲しくて、東京は目白のカラファテで一着だけ取り扱っていたものを購入した。

 

――パウダー三昧の北海道ライフが始まったわけですね。

なにしろあの頃は、好んで非圧雪を滑る人なんていませんでしたから。
どこもかしこもノートラック。もう毎日、最高!の言葉しか出てこない。そんな幸せなシーズンを数年過ごして、はたと現実に戻りました。


――何があったんでしょうか?

仕事がないんです。冬は毎日滑りたいから、夏の間にしっかり稼いでおきたい。だけど当時のニセコには仕事自体、そんなにたくさんはないんですよ。

 

偶然の出会いが、人生をこっち側に転がしました

――切実ですね。

そこで都会なら求人も多いだろうと考えて、札幌に引っ越したんです。それである日、馴染みになったバーのカウンターで、アラスカのデナリという山に行ってみたい、という話をしていたんです。僕としては父に聞かされていた憧れの山だし、いつかは登ってみたい。話に聞いていた景色を自分の目で見てみたいと思っていました。そしたら隣に座っていた人が、オレも行きてぇんだって。じゃあ一緒に行きますか!なんて盛り上がって、ほんとに1年後、その人と一緒にデナリに行ったんです。それが後にムーンフラワーというガイドカンパニーを運営することになる萩さん(萩原 豊さん)でした。この出会いが僕の人生を大きく変えることになるんです。

――というと?

デナリ遠征の資金を貯めるために紹介されたのが、歩荷(ぼっか)やテールガイドといったガイドサポートの仕事でした。それまでは世の中にガイドという仕事がある事も知りませんでしたから、山に登ってお金をもらえることに驚いたんです。好きなことして稼げるなんて嘘みたいだ! こんないい話ない!! って大喜びですよ。そう考えるとやっぱりデナリに行くと決めたことが、僕がガイドという仕事を知って、ガイドになろうと思った最初のきっかけなんです。

――デナリはどんな印象でしたか?

デナリには合計4回行っていますが最初でしたから、とにかく辛かったです。

1998年、思わぬところから意気投合して実現した、ムーンフラワー・萩原氏とのデナリ登頂。左の立本が握るのは、1972年にお父さんがデナリ登頂の際に使ったピッケル。

あんなに空気が薄いところに行ったことはありませんでしたから、これは自分の能力ではかなわない、来てはいけない所に来てしまったんじゃないかという不安な気持ちを抱えての登頂でした。でも、山を降りてきたときにはおもしろかったな、もう一回登りたいなと思っていました。

――登りながらお父さんに聞いた話を思い出したりしましたか?

息は苦しいし身体はしんどいしで辛いほうが先に立って、それどころじゃありませんでした。だけどピッケルは、父がデナリで使った古い木のシャフトのものを持って行きました。何て言うのかな、もう1回そのピッケルをデナリに連れて行きたかったし、父の道具で登ってみたかった。その部分で、父に対するちょっとしたリスペクトのようなものはあったと思います。

こうして立本はガイド、という選択肢を知り、そこに向かって進み始めることになる。外遊びと山とスキーが好きで、持久力に恵まれている。小さい頃からやってきたことが、バックカントリースキーというアクティビティを知ったことでひとつにまとまった。やがて立本は山を滑ることに傾倒し、その活動の範囲を世界へと広げていくのだった。

2023年12月に登頂した、南極大陸最高峰のヴィンソン・マシフ(4,892m)。デナリ初登頂から20年少々で、立本の活動範囲は飛躍的に広がった。

 

【>>第二回に続く】

 

立本明広
北海道をベースに活動を行う山岳ガイドオフィス「NORTE(ノルテ)」主宰。
高校、大学時代はクロスカントリーの選手として国体、インターハイ、インカレで活躍。
北海道のパウダーに魅了され、 1996年より北海道に移住し山岳ガイドとして活動を始める。

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